投稿

症例報告- 「お尻の痛み+足を引きずるような歩行」

イメージ
患者さん主訴: 『何ともいいがたいお尻の痛みが続いて、ここ数ヶ月スッキリしない状態が続いている。ちょっと買い物に出掛けても、歩くと足を引きずるような感じになってしまう。』 患者さんに痛みのポイントを示していただくと、お尻の側面からうしろ全体を押さえる。                                           みたて: 痛みのポイントとアプローチポイント(施術をするポイントの事)が重なることはこれまでの経験からもほとんどといってない。 今回のケースも、痛みの原因をたどっていくと、 お尻→膝上部→アキレス腱上方→足の甲→足指4指と遡ってアプローチポイントが定まる。 このように、症状がでている部分と離れた場所に解決の鍵がみつかることがあります。 今回の患者さんも、これまでに骨盤を調整をしたり、お尻の部分の筋肉の緊張をゆるめる施術を受けていたとのことです。 施術後は痛みが全くない状態で歩行が可能となる。翌日に様子を伺う機会があり、その後の経過をお聞きしましたが、『今日は気分よくデパートで買い物ができた』とのこと。
呼吸 私たちは一日の生活の間に、2万八千回呼吸します。 食物の消化のサイクルが24時間かかるとすると、呼吸作用の1サイクル(空気の吸収)には約3秒かかります。 バランスのとれた呼吸は、健康的で、若々しい生活の必須の要件です。 新生児において最初の呼吸が生じ、スペースとのリズミックな交換が始まる様子を産婦人科医のフレデリック・ルボワイエが描写しています。今日はその一文を抜粋させていただきました。 『子どもは、誕生する前はひとつの統一体のなかで生きていました。子どもは世界と自分のあいだに、どんな区別もしていませんでした。外も内もひとつだったのです。子どもはまだ対立というものを知らなかったのです。たとえば、冷たさについては何も知りませんでした。冷たさは、暖かさと比較することで初めてわかるからです。 子宮のなかでは、胎児の体温と母親の体温は完全に一致しています。どうやって、そこに区別が感じられるでしょう。 誕生以前には、内も外も、冷たさも暖かさもないのです。 誕生とともに、赤ん坊は対立の王国に転落します。そこでは、あらゆるものが、善と悪、快と不快、好きと嫌い、乾きと湿りなどに区別されます。子どもは、仲たがいした兄弟のように、切り離すことのできない対立関係を発見するのです。 子どもは最初どのようにして対立の世界に出会うのでしょう。感覚によって知るのでしょうか。いいえ、それはもっとあとです。 呼吸によって対立の世界に入っていくのです。 最初に息を吸い込むとき、子どもは一線を越えます。いま、そのときがきました。 子どもが息を吸い込みます。息を吸うことで、その反対の動きが生まれます。息を吐くのです。 そして、これがくりかえされていきます……。 振り子がふれはじめ、はてしなく動きつづけます。この世界の原理とは、あらゆるものが呼吸と振り子の運動からできている、ということです。あらゆるものが永久にその対立者から生まれます。昼は夜から、夏は冬から、富は貧乏から、強さは謙虚から生まれます。 始まりとか、終わりとかいうものはありません。 呼吸とは、こうした世界と調和し、普遍的で永遠につづく脈動と一体化することです。』  フレデリック・ルボワイエ/『バースサイコロジー』より抜粋
イメージ
ポンポン山の紅葉 先日の日曜日に、ポンポン山へ家族で紅葉をみに出掛けました。 天気も快晴で、見事に紅葉していました。見たことのない山野草も数多くありました。 標高679メートルのこの山は、頂上に近づくにつれて足音がポンポンと響くことから地元ではポンポン山と呼ばれています。正しくは かもせ山 というそうです。 学生の頃、6年間トレイルランニング(山走り)をこの山で続けていたので、頂上へは700回以上は登っています。ほんとうに大好きな山です。 息子は松ぼっくりや赤い実採集に熱中していました。
イメージ
紅葉の時期にあわせ、施術所の待合室の額を『落ち葉』に変えてみました。 作品に使っている落ち葉は、昨年万博記念公園で家族みんなで採取したものです。 今年の大阪の紅葉見ごろ予想は11月上旬~中旬となっています。 まだ紅葉は青葉のようです。 きれいな色に染まるのを観るのは、この時期の楽しみです。
休日に久しぶりにユーリー・ノルシュテインの「話の話」(1979)を観ました。 「話の話」は作家本人の経験や思い出に基づきつくられた長編アニメーション作品です。 ユーリー・ノルシュテインは、切り絵による繊細な表現で映像をつくりだしています。 日本でも2010年にロシア文化フェスティバル/ノルシュテイン展覧会がありましたが、こちらは会場が遠方だったこともあり、図録を購入しました。その図録中に 私は論理というものが苦手で、身のまわりの世界を自分自身に説明しなければならな   い理由がわからないのです。実用的な言語は暗喩と比較すれば頼りないものです。日々親しんでいる日常の細々とした出来事を、首尾が一貫して調和のとれた手段で数えていけば、それはとりもなおさず暗喩、すなわちメタファーに形をかえるのです。 「話の話―ロシア・アニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールブソワ」展覧会図録2010より  という展覧会への本人の寄稿があります。まさに映像の詩人と呼ばれる所以です。 私にとってこの一文は、宮沢賢治の詩に対する主張を書いた「詩法メモ」中の 詩は裸身にて論理の至り得ぬ/堺を探り来る/そのこと決死のわざなり イデオロギー下に詩をなすは/直観粗雑の論理に/屈したるなり を連想させます。 この作品は、戦中から戦後を生きたノルシュテインの記憶や体験に基づくさまざまなエピソードを連ねたものですが、平安な日常のシーンや、その日常を揺らがす出来事の描写など、観るものを共感させる普遍的なテーマが描かれています。機会があれば是非観てください。
好んで読む施術関連の本の中に『The Selected Writings of Beril E. Arbuckle,D.O.』がある。 その中に、「もし学生が、解剖学を十分に習得するよりも前に、臨床に着くことを許されるとしたら、彼は調整しようとする身体に関して不十分な知識が混じった状態で施術をすることになる」という言葉がある。 自分にとっては、このことを常に肝に銘じて日々の勉強に取り組みたい。